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結果と経過

2007年06月26日

すべての出来事も自分自身の状況も、全部が経過であり結果でもあるということのお話から始まります。
 ――私が今、パソコンの画面を見た。特に何も考えてはいないけど、またきっとそれなりの答えを書き出すだろうと思っている。日記を書き出した――

これは少し前の今の私の行動と心の状態を表したことですが、すべてが結果ということになります。つまり、瞬間を単位とすれば毎瞬のすべてが結果の連続であるということになります。でも、日記を書くという一つの物事を完了させるという単位でみると、すべてが経過となります。そして、日記を書き終えて読み返し、誤字脱字をチェックし終えて公開した時点で、日記を書くということに関しての結果となります。ただし、今度は私自身の1日という単位でとらえたときには、日記を書いたと言うことは経過に過ぎません。1日を終えた時点を寝る時と考えているので、私が寝るときにどう思っているかとかどのような状態なのかが結果となります。こうして広げていくと、人生が終わるときを結果としてとらえれば、それまでのすべてが経過になりますし、魂の単位になると、人生すべても経過となるわけです。

何を伝えたいかといいますと、私がコメントに書いた「結果」とは、私の考えている単位における結果に限定されてしまうということが前提となるということです。そして、一つの単位でも、五感的(視覚・聴覚・触覚・嗅覚・味覚でわかること)な観点と波動の観点という二つの観点があります。

私が結果ととらえる単位とは、あのコメントに関していえば二つの単位に限りました。まず、一つは、一つの出来事が終わったと思ったときです。もう一つの単位は、1日という時間で区切っています。ここでいう1日とは、朝起きてから眠るまでの間です。

私は、どちらかというと、一つの出来事の結果よりも1日を単位とした結果を重視しています。その理由はいくつかありますが、一つの理由としては寝る前の波動の状態によって寝ている間の波動が変わってくるからです。私の場合は平均6~7時間は寝ますし、子どもたちはそれ以上に眠ります。寝る前に心配や不安や怒りや強いエゴといった波動が下がった状態のまま寝ようとすると、なかなか寝付けなかったり寝てからも夢見が悪かったり体のバランスを崩してしまい体調が悪くなったりするとか、朝になっても体が重くてなかなか起きられないなどのネガティブな状況になりやすく、1日の始まりである寝起きから波動が下がった状態になってしまいます。逆に、充実感や幸福感などのポジティブな波動のまま眠ればそのまま朝も快適に迎えられます。

他の理由としては、一つの出来事の最中であったり五感的には結果が出ていたりした現象を、その時点ではネガティブにとらえてそのままになっていたとしても、1日の終わり間近に、冷静になって考えて自分なりに整理してみると、逆にとてもポジティブな出来事だったと実感できたとしたら、1日の単位の波動の結果は高いということになるからです。

世間の中では、一つの出来事を終えたときに、結果という表現をする場面が多いと思います。だから、私の一つ目の単位はもっとも一般的であることですし、1日を単位とすることは、きっと次に多いことだと思いますので、やはり特別でもなんでもないということだと思います。だから、きっと私の中では、自分で思うときも人に表現するときも、結果という単位についてを深く考えたことがなかったし、詳しく表現する機会もなかったのだと、今、思いました。

これも当然のことだと思いますが、その結果の中でも、一般的には五感でわかるものを結果と表現して重視する場合が多いのではないかと思います。でも、私の場合は波動がどのようになるかという結果のほうを重視しています。五感でわかる結果が、望んでいた結果として現象化されればポジティブに感じるのは当たり前です。そうでない結果として現象化したとしても、それをどうとらえてどう受け止めたかがすべてであると思っていますし、その波動の結果が少しでも高い状態でいるように修養を積むことが大切だと思っています。

就労して職務を全うする際に、会社や上司から期限を区切られて任せられたことをやり終えることができなかった時、「体調がすぐれなかったために(がんばって努力したのに、などの情緒に訴えることも同様)終わりませんでした」では何の解決にもなりません。結果としては、職務を全うできなかったという五感の結果と、職務を全うしなかったために起きる職場での不調和を生み、職場の人間や自分自身の波動を下げるという結果になってしまいます。

子どものことについては、おとなが行っている教育やしつけといった中において、体調が悪かったとか努力したとかという経過を重視されるのは当然です。結果がどうだったかということよりも、どれだけ努力したか、考えたか、経験を積んだかという経過が評価される場合が多いですし、体調が悪かったのなら仕方がないという情緒の問題で、体調が良くなったらがんばるという結果でも許されるのです。

特に小学校やそれに順ずる場において教師という立場で教育をお仕事としてしていると、子どもたちの経過を評価するということが身についていく人が多いです。これは普通であり良いことでもあるのですが、おとなである自分たちの仕事に関しても同様にとらえる方も中にはいます。忙しくて忘れたとか、私なりにがんばったけど終わらなかった……。そんなことを、公然の理由として位置づけるということがあります。中には、休んで逃げちゃうとかということも。さらに、最後まで自己責任を取らせないで、善意の名のもと、勝手に違う人がやってあげちゃうとか。笑ってごまかして先延ばしにしちゃうなんていうこともあります。経過は単なる経過。仕事が終わっていないという結果は変わらないわけだし、それによって人に迷惑をかけたり不調和を生んだりしたのだから、経過は関係ない。その状況の中で、今後どのようにするかという解決策が重要であるし、何よりもそのような結果に至らないようにするという自己責任があるということを大いに反省し自覚するべきである。ちょっと履き違えてるんじゃないの!?って思いますが、みんなじゃなくて、そういう教師も中にはいるということです。まあ、教師でなくても社会にはそういう人もいるわけなので、ここで限定しないほうが良いわけですが。

ただ、ここで言いたいのは、教師というお仕事はそれなりの大きな役割と責任が必要であるということです。おとなとしての自己責任のもとのお仕事としてこどもを教育し、自分はおとなであるという自覚のもとで、子どもに対しても事務処理や他の職員との連携等の子どもとは接しない部分の職務に関してもまっとうしてほしいということであります。

ここでいう、子どもとおとなの違いは何かといいますと、自己責任の大きさの違いということになります。しっかりとした線引きは難しいかもしれませんが、当然、自己責任が大きいのはおとなで小さいのが子どもということになります。これは、環境・境遇・立場・心身の状態などによって人それぞれだと思いますので、一概に何歳になったらおとなであるといった年齢による定義は難しいです。

「おとなは結果がすべて」という表現については、一言でいえばおとなは自己責任が大きいために、自己責任が伴う出来事が多くなるわけですから、常に一つの単位とした五感的結果がどうであり、波動の結果がどうであるかということも、子どもに比べたら度合いがとても大きいということです。人間の考えた法律も少年法や学校教育法などの主に子どもを保護したおとな以上に結果をとがめずに経過としてとらえて、おとなになってから子どものころの経験をふまえて反省して、どのような自己責任がとれるおとなになるかを期待するというものもあるのは、そういったことからだと思います。

一生を単位とした結果について少し書きます。極端な例えになりますが、今まで、どんなに愛に満ちあふれた生活をしていても、一瞬の魔に侵されて強盗や放火などのとりかえしのつかない罪を犯したとします。それまでの人生における経過がどうであれ、罪を犯した時点の結果は魔と同じ低さです。とりかえしのつかないことをしたことに対して、一生罪を犯したというカルマを背負って生きていかねばならないのです。どんなに素晴らしい生き方をしていて、実際に波動のとても高い状態が続いていたとしても、罪を背負ってその後の一生を終えたとしたら、一生を終えた時点の低い波動のみが自分の魂に積み重ねられます。

逆に、経過が波動の低い状態の連続だったとしても、晩年に気づきや反省を生かすことにより、人のために愛をたくさんめぐらせて奉仕することをして幸せな気持ちで霊界に帰れたとしたら、その人の魂には一生を終える時点での状態である高い波動のみが積み重ねられます。

子どもという立場の場合には、人によっても違うでしょうが、親や親類といった肉親や教師とか社会で接しているおとなが、子どもに対して、さまざまなことを教えてくれたり与えてくれたり環境を整えたり、時には責任の一部を負ってくれたりするといった無償の愛による保護を受けることができる可能性がおとなよりもずっと高いです。3歳児と12歳と40歳では、日本人の平均的な状況としてみたときに、自己責任の度合いは全く違ってくるわけです。3歳児なら、経過がそれなりに道理にかなっていることをしていれば、楽しんでいれば、がんばっていれば、結果が多少失敗したってよいですし、おとなの無償の愛による保護の下、いくらでも学んで修正していけます。

おとなが子どもに与える影響力はとても大きいということ。そして、親が子に与える影響力はさらに大きく、一生を左右させるものとなる場合もあるということ。そんな中、おとなとしての自己責任の中に、自分よりも人生の先が長い確率が高く、自分よりも今世の経験が少ない子どもたちに対して、すべての子どもたちに対してもそうですし、特に自分の子や縁のある子どもたちに対する責任というものもとても大きなものであると意識して強く自覚を持ち生きていくことも大切であるということです。

そういえば、昨日のちょっとかわいそうな出来事を思い出しました。我が子二人と駅近くの大通りで信号待ちをしていたときのことです。私たち3人とサラリーマンと思われる30代前後の2人しかその場にいませんでしたが、子どもたちのいる目の前で、車のなくなった瞬間に、赤信号である中を堂々と渡りはじめたのです。1年生のアマンダも5年生の長女も一瞬あぜんとしていました。私がすぐにアマンダと長女に伝えたこと。子どもの時からの積み重ねという習慣が大切であること。このような場面では、知っている人なら教えてあげればよい。知らない人だったり、言えなかったりした場合には、自分は交通ルールを守ろうという確認をすること。人がやったから自分も渡っちゃえという行動をとると結果は同じ罪になるということ。決して嫌な思いをしたり怒ったりせず、ちょっとくらいがまんすればいいのに、こんなことをするなんてかわいそうな人という慈しみの愛の心を向けてあげること。それが大切であると教えてあげました。そして、最後にみんなで「かわいそうに……」という慈悲の思念を二人のおとなに送ってあげてこの経験による結果としました。
 
最後に……。結果が「すべて」という表現だと経過は関係ないというニュアンスになってしまうのでしょうか。だとしたら、おとなは経過よりも結果を重視、子どもは結果も経過も重視、ということになるのでしょうか。このほうが表現としては柔軟性がありますね。

すべての出来事を瞬時にポジティブにとらえるということは、物質世界における人間としては絶対に無理であると断言できます。突然、後ろから頭を殴られたとします。だれもが、痛い~と思うとか急に何だよと文句を言いたくなるとか、怒るとか悲しくなるとか……何も事態がわからずに殴られても瞬時に許したり感謝したりといたポジティブな状況になる人はいません。極端な例でしたが、つまり瞬時にすべての波動を高めるのは無理なのです。だから、いかに波動を早く高めるか。いかに波動を下げたときの質を抑えるかということです。

この例ですと、怒りの感情という質の低い波動を持たなくても、痛いとかびっくりとしたとかという感情を持つことで波動は下がりますが、状況を確かめてみたら、誰かの手が間違ってぶつかっただけとわかったら、すぐに許すことができるはずです。経過の中の波動をできるだけ下げないように修養していけば、結果も早く高くなれるのです。

経過は一つの結果であり、一つの結果は経過でもある。最終的に、神により輪廻転生という機会を与えていただき、今を生きているわれわれは、一生の中での今という時を、どう生きているかということが大切。いつ、人生を終えて霊界に帰るという結果になってもよいように、できるだけ小さな単位の結果がより波動の高い状態になっているほうが、今も幸せだし霊界に帰ってからも幸せでいられる……ということだそうです。
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