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身延山 久遠寺

2009年07月01日
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~身延山久遠寺御本堂前~


7年前の夏に、私はレイキ1~3の伝授を受けました。この時は、私は小学校の教員をしていました。都会のマンションの一室にて個人で伝授を行っているレイキティーチャーから、1日のみでレイキ1~3すべての伝授を受けたのですが、この日を境に私のスピリチュアルな目覚めは大きく進んでいったと自負しています。その目覚めの中の1つに、宗教に対する認識の大きな変化がありました。

*下のURLはブログ当初の日記ですが、過去の私自身に関してまとめた内容です。
http://mfhqc9393.blog65.fc2.com/blog-entry-1.html
http://mfhqc9393.blog65.fc2.com/blog-entry-2.html

私の実家にはお仏壇も神棚もなく、父方が真言宗であることは祖父のお墓に何度かお参りしたので分かっているのですが、父も母も日常的にはまったく宗教とは無縁な感じでした。私自身は、鎌倉や京都や奈良が大好きですし、お寺様や神社を参拝するのも大好きでしたが、宗教という言葉に対しては拒絶反応のようなものが常にありました。「宗教=いかがわしい新興宗教」という認識が強かったので、合掌するとか宗教の話を聞くことすら拒絶し、合掌はお寺様と神社とお墓の前にて限定して行っていた感じでした。

レイキの伝授を受けた少し後に、ある1冊の本をきっかけに突然「南無妙法蓮華経」のお題目が愛おしく感じ、日蓮宗について知りたくなりました。そこで、最初は日蓮宗の書物を何冊も読んだり、法華経に関して学んだりしましたが、そのうちに仏教のことをもと知りたくなったので、仏教の各宗派のことなどの全般にわたることも学びました。

そんな中、その年の11月末頃の日曜日に富士5湖の1つの河口湖で開催されるフルマラソンの大会に参加するために、1人で河口湖近くの旅館に1泊しましたが、その際、大会の前日に身延山の久遠寺に立ち寄り、初めて参拝しました。久遠寺はお堂の中にも入れますが、私はこの時に吸い込まれるようにご本堂に入ると、お上人がお題目を唱えているところでした。私はその場に正座して一緒になって南無妙法蓮華経のお題目を唱えましたが、心は震え、あまりの感動に涙が止まらなくなりました。この時はなぜだかよくわかりませんでしたが、魂の琴線に触れた喜びの感覚を始めて味わったと今は思っています。

その後帰宅してすぐに、どうしても母にこのことを伝えたくなり電話をして話をしたところ、新潟にある母の実家は代々日蓮宗を信仰していたとのことでした。祖父は、お仏壇に向かって法華経やお題目を唱えることは日課だったようですが、母は祖父のお経やお題目を聞くのが子どもの頃は大好きだったとのことで、よく祖父の隣に座って聞いていたとのことでした。でも、結婚してからは父の家が真言宗だったために、日蓮宗のことは話題にしなくなったとのことでした。そのような話を聞いて、私はなんだかとても納得できました。

私たち家族には2人の水子がいますが、水子のご供養のためにと、信頼できると感じた日蓮宗のお上人にお願いして、お仏壇やお位牌などに魂入れをしていただき、それ以降、今でもそのお仏壇を通してご先祖様や日蓮様や神様や仏様に対してお祈りを捧げることが日課となっています。でも、日蓮宗の会合のようなものに参加するとか、法話を聞きに行くとかといった集団で何かを行うことにはまったく興味は持てないので、日蓮宗のお寺様を参拝したりお仏壇に向かて法華経やお題目を自らが唱えたりすることで、日蓮宗に帰依している状況です。

また、私の主の守護霊様は日蓮宗のお上人であったことを知っています。一度、はっきりとしたお姿を見せていただき、お題目を唱える声もお聞かせいただきましたが、守護霊様のその崇高なご様子をはっきりと感じ取ることができました。

そんなわけでして、日蓮宗の総本山でもある久遠寺への参拝には、あれから10度ほどは訪れました。そして、妻の過去世や主の守護霊様と大きく関係していると感じている伊勢神宮や、私の過去世と大きく関係していると感じている出雲大社と同様に、私の主の守護霊様と大きく関係している久遠寺の参拝も、今回で3次元の世においては最後の参拝旅行になるであろうという思いの中、心をこめて参拝してまいりました。

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以下はフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より転載した内容です。

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久遠寺(くおんじ)は、山梨県南巨摩郡身延町にある、日蓮宗の祖山(総本山)。山号は身延山。

文永11年(1274年)、甲斐国波木井(はきい)郷の地頭南部六郎実長(波木井実長)が佐渡での流刑を終えて鎌倉に戻った日蓮を招き西谷の地に草庵を構え、法華経の読誦・広宣流布及び弟子信徒の教化育成、更には日本に迫る蒙古軍の退散、国土安穏を祈念した。

弘安4年(1281年)に十間四面の大坊が整備され、日蓮によって「妙法華院身延山久遠寺」と名付けられたという。日蓮は弘安5年(1282年)9月に湯治療養のため常陸(加倉井)の温泉と小湊の両親の墓参りに向かうため久遠寺を下山し、途中、信徒であった武蔵国の池上宗仲邸(現在の東京都大田区本行寺)に滞在して六人の弟子を決め「六老僧」同地で死去(弘安五年十月十三日)し、日蓮の遺言(いずくにて死に候とも墓をば身延の沢にせさせ候べく候)に従い遺骨は身延山に祀られた。あしかけ九ヵ年の生活であった。

日蓮の身延山での生活は「人は無きときは四十人、ある時は六十人」とあるようにこのような人数で生活をしていたと考えられている。各地の信徒より生活必需品が多く届けられ、日蓮はこの身延山をインドの霊鷲山を移した山であると示し信仰の山として位置づけている。身延山での生活で遺文の三分の二が執筆されており、日蓮真筆の曼荼羅もほとんどがここ身延山で手がけられている。身延山は日蓮宗における唯一の聖地であると位置づけられており、日蓮の遺骨は歴代の法主(住職)により日蓮の御遺言通り今日まで護られている。

室町時代の文明7年(1475年)には11世法主日朝により現在地に伽藍が移転され、戦国時代には甲斐国守護武田氏や河内領主の穴山氏の庇護を受け、門前町が形成された。江戸時代には日蓮宗が徳川氏はじめ諸大名の帰依を受け発展し、宗門中興三師と賞される日重・日乾・日遠のころには対立する不受不施派を排斥して地位を確立し、その後日脱、日省、日亨の三師で壮大な伽藍を整えて盛期を迎える。明治八年一月に西谷本種坊からの出火で伽藍全部を焼き尽くしたが七十四世日鑑上人の尽力とその後の法主の力により現在に至る。

久遠寺には数多くの経典や典籍・書籍、聖教や古文書類(身延山文書)が所蔵されており、「身延文庫」として一括され身延山宝物館に所蔵されている。

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