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パフォーマンスよりも真実・裏よりも表・言葉よりも波動と行動

2008年01月12日
マスコミを使って多くの人の前で、言葉を使って謝罪すること、表情で謝罪している気持ちを表現すること、態度で表現すること…それをするのかしないのかによって、財界、政界、芸能界などの、それなりに経済的や社会的に地位が高いとか影響力があるとかといった評価をされている人や団体が不祥事を起こした際には、世間の評価が大きく違ってしまうというのが常識的な価値感覚になっているようです。

例えば吉兆や鶏肉の偽造問題といった事件は、発覚しなければ客となって利用していた人はだまされ続けていたし、会社側はだまし続けていたわけです。おもしろいことに、そんな低い波動の中で調和されていたために混乱にならずにお互いが満足というポジティブな感覚の中にいたわけですが、真実という宇宙における本来の状況が知らされたとき、とたんに低い波動の中においては混乱とか怒りとかといった不調和がおきるわけです。

不調和が起きてしまったわけですから、それなりに解決しようとするのですが、世間に知らされる主な解決策では、「申し訳ありませんでした」と言葉で表現して涙を流したりいかにも悪いことをしてしまったという反省をしている表情をしたりしながら、頭を深く下げるというパフォーマンスをするという、お決まりの3次元的解決策をとるわけです。

ボクシングの亀田選手や相撲の朝青龍に関する問題は、このお決まりのパフォーマンスをしなかったので徹底的にマスコミから発して、世間からも大いにたたかれました。

もちろん、謝罪するということを表現することは必要だと思いますし当然だと思いますが、解決策としての大きな手段であるかどうかといえば、そんな単なる上べであって表面的なことは、それほど関係のないことではないかと思います。

なんだか、どれもこれもこのたぐいのことは同じように感じますが、ただ、罪とわかっていて行っていたという罪の方がやっぱり悪質であり波動の低いことだと思うのは、多くの人も感じているかと思います。世間に知られちゃったから、ばれちゃったから謝る。もし、知られることがなければ、ずっと罪を重ねていたわけですから、罪を行いつつも、まだばれていない人や団体はきっとホッとしていたり恐怖を感じたりしているのでしょうから、なんとも情けないことだと思います。

亀田選手や相撲の朝青龍は、時間の経過における世間の関心度が低くなっていくという流れを利用して、本来の反省っというものによる改善や解決がどうであるかは疑問視されるまま、少しずつ世に出ているわけですし、吉兆は様々な今の世の法律や経済界などを利用して、表面的な儲けを復活させるために民事再生という手段を使い、あらたなるお金儲けのために復活しようとしています。このような事例の場合、今後のどうなるのかということでは簡単な予測がつきます。このまま、裏を反省して本来の解決をすることが成されなければ、さらなる低い波動がめぐって、落ちるところまで落ちてしまうということです。もう、今のこのアセンション直前のエネルギーの高まる状況においては、やはり表面のごまかしはききません。真実の世界になっていくということです。特に、一度このように裏が発覚してせっかくの波動を高めるためのチャンスをもらったのに、反省をしたり改善したりすることが十分にできずに実生活を送ってしまえば、残念ながらより向上していくことが難しくなっていくことでしょう。

アメリカの大統領選挙は、いわば「どれだけ言葉の使い方が上手なのか」「いかに表情の使い方が上手なのか」といった、「表現力が豊かであってパフォーマンスが上手な人がだれか?」といった、まるで芸能界のコンテストのようになっているというのが、連日放映されるニュースを見ながら、とても滑稽な映像として見てしまうのは、私だけでしょうか。。

私は子どもを叱りながら、ついつい怒りとか自分の思い通りにならないというエゴとかといった低い波長を発してしまい反省することが何度もあります。目の前に起こる五感でわかる現実の中で、嫌だとか避けたいとかといったネガティブな思いを感じることも日常生活の中で時々あります。だから、そんな目の前の現実のすべてである一瞬一瞬を感動的であるとか素晴らしいことであるとかといった波動の高いことを瞬時に感じているかといったら、それはノーと答えます。

でも、今という時が幸せと感じて愛の中に包まれていれば…つまり、自分の波動がとても高い状態になることができた時には、後付として高い波動の中で省みれば「感動」とか「最良なこと」「必要な経験」と表現できます。

しかし、本来は多少なりとも厳しいとかきついとか避けたいとか不安や心配に思うこととか、そういった経験もしているのにもかかわらず、言葉として表現するときには、「私はいつでも目の前の現実に感動している。」「最高で最善の経験をしていることをいつでも実感している」…などといった表現をしたところで、これはどんな意味があるのでしょうか…と私は思っています。常に大いなる愛に包まれていることを実感し、幸せであるということを常に感じていれば、どのような経験に対しても受容する際によりポジティブにすることができるので、結果としてそう感じることができるのはよくわかります。でも、この3次元の中においてそれなりの人や物の中で実生活を送りながら経過としても「一瞬一瞬といった常時において、すべてのできごとを最善であり最良であり感動的であるなどといったことを感じている人」って、本当にいるのかなあと思いますし、私はまずありえない難しいことであると思っています。例えば、急に足を踏まれたら痛いし嫌ですし、テレビの画面において暴動や交通事故などの事件が報じられたのを見ても、とても瞬時にポジティブにはなれませんから…ましてや目の前で起きたとしたらなおさらです。

ただし、言葉で表現するのはとても簡単なこと。うわべを飾るのはとても簡単なこと。でも、そんなうわべは、人のお役に立つという観点でいえば、多少なりともポジティブな波動は与えることができるでしょうが、たいした影響を与えることができないと思います。

ストレートに表現すること。これは陽であり表のこと。表面は表面で奥にある本心や波動を隠してしまったり偽ってしまったりしていれば、表面のことは裏であること。陰であること。いずれ、裏は暴かれ表が世に出ます。

本来の表であり陽である部分を多分に持ち合わせている人。輪廻転生をしながら素晴らしい経験を積んだ魂を持ち合わせて、今世における転生してきた目的がより多くの人のためにお役にたつことである人。目覚めていく中で、そのような自覚を多少なりとも持たれた方々は、表面という言葉や表現によってのみではなく…固定観念や世間における価値感覚にとらわれすぎることなく…ストレートに全身全霊を持って表現し、言葉で表現することと平行して行動にも表すことで、たくさんの人の先にたちアセンションに向かってリードして、人や地球や宇宙のお役に立つことができる人には、そのように実生活を送って欲しいと、常に私は望んでいます。私も、そんな目覚めをさせていただいたと自負している中、常に修養を重ねている次第でありますが、言葉による表現のみではなく「思念(気)や行動」を重んじて、目の前の現実の中でよりポジティブな実生活を送ることに努めつつ、無理なく人のためのお役に立てることができると思われること(お仕事)をしているつもりでいます。
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