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自己を大切にすることと利己主義(エゴ)の違いや見分け方について 

2011年02月22日
*下記の内容は、2009年9月10日にタエヌが書き下ろした内容の改訂版です。

当ブログの読者様からいただいた内容をQ.以下に要約して書きました。また、私なりに書きたいと感じたこともA.以下に転載してみました。

Q.自己を大切にすることと、利己主義(エゴ)の違いや見分け方について教えてください。

自分を愛し、大切にすることは、神や宇宙の法則にも合っていることだとは思うのですが、たまに、自分がしたいと思うことが、エゴではないかと思うこともあります。

たとえば夫婦間で目指す方向が違う時、自分の意志を通すのはエゴなのか、自己を大切にすることなのか、迷うことがあります。

自分も周りも幸せに感じる道があれば、それが一番なのでしょうが…。


A.人の行う物事のすべては「動機」が最も大切なものとなります。ですから、まず何かの物事を進めるにあたって、自分の意識や行動に関しての動機をチェックして自己判断をしてみてください。この動機をチェックする際には、自らの楽しみで行うような場合には「純粋なもの」であると感じるかどうか、自分以外の人や生物や環境などが関わるような場合には、「純粋なもの」であるかどうかに加えて「大きな愛」の中から生じたものであるかという観点で自己判断をしてみてください。そして、その動機が純粋なものであるとか魂から湧き上がるようなわくわく感であるとか純粋な愛の中から生じたものであるとかと実感できるのであれば、エゴではない、もしくはエゴがあったとしても小さいものであるといえるでしょう。

ただし、このような観点での自己判断は、その人の波動の状況によって判断が異なる場合がありますので、一概に宇宙の真理に基づく判断であるとは言い切れない場合もあります。しかし、他者がジャッジしたり他者をジャッジしたりすることができる問題ではありませので、自らの責任のもと、自己解決すべき問題なのです。ですから、他者に確かめたりジャッジをするよう依頼したりする必要はありませんので、自分自身の今の時点での波動の中での、思考による判断と直感的な判断とを総合した自己判断を信頼することがベストであるということになります。

そして、その自己判断の中で、動機が「純粋なもの」もしくは「純粋な愛」によるものであると感じたのならば、迷うことなく、自らのわくわく感に従って行動を選択するようにすればよいということになります。そして次に、この「行動の内容や状況」に関してもチェックする必要があるでしょう。

行動の内容や状況をチェックする観点は、2つあります。1つは「道理に叶っているのか」ということ。もう1つは「より調和を保つことができているのか」ということです。

「道理に叶っているのか」どうかということは、自己判断の中で、人の行うべき正しい道であるかどうか、今の世における最低限のルールを守っているかどうかといったことなどが基準となります。

「より調和を保つことができているか」どうかは、自分自身の意識や感情や思考や肉体といった各レベルの中での調和がそれなりに保てているかどうか、他の魂が関わる場合には、相手の領域を過干渉しすぎていないかどうか、また、相手の魂との意識や感情や思考や肉体といった各レベルとの不調和が生じていないかどうか、といったことが基準となります。

ただし、この他者との領域の干渉するラインとか、意識や感情や思考の調和のレベルとかは、すべての状況においてのある程度の最低限の基準は一致しているにしても、ケーバイケースであることでもありますので、物事の状況によって異なる場合があります。

「物事の状況によって異なる場合」を具体的に3つの例で示しますと、生活を共にしている親子であるとか夫婦間であるとかといった場合と生活を共にしていない友人同士である場合とは異なるでしょうし、スポーツをしている中での場合とじっくりと話し合いをしている中での場合とは異なってくるでしょうし、1つの物事を集団で理解しあいながら進めていくような場合と個々の意で個人的に進めていくような場合も異なるでしょう。


それでは、今回いただきました「夫婦間で目指す方向が違う時、自分の意志を通すのはエゴなのか、自己を大切にすることなのか」というご質問に関しまして、上記の内容を当てはめて具体的に表現してみます。

自分自身の意志を相手に伝える際に、ただ単に自分の意志を伝えたいと感じるような場合は、動機が「純粋なもの」である場合が多いでしょう。しかし、相手の考え方を変えたいとか、自分の意志に従わせたいとかという気持ちは「エゴ」になるでしょう。ただし、このようなエゴは、相手に対しての大きな愛の中で生じたものであれば、小さなエゴとなるでしょう。もし、自分自身の意志を愛の大きく持った中で相手に伝えるまでが自分の領域でのことであり、たとえ相手がどのように受け止めたとしても、それは相手の領域であるのだから相手の意にゆだねる、というような感じで過干渉せずに領域の調和を保ち、結果として割り切ることができるようならば、動機にも行動にもエゴは入っていないことになるでしょう。

ただし、家族間での最低限のルールを決めるとか、今後の共同生活をする中での共通理解を図るとか、お互いが学びあい魂を高めあうために必要であると感じたことであるとかといったような場合には、できるだけお互いが納得するような内容で合意することが目的となるわけですから、動機は常に純粋な愛を保つように心がけつつも、お互いの意識の領域への干渉する度合いは、日常的なことよりも深くなるケースが多々出てくるでしょう。その際には、できる限りの調和が保たれるように配慮しつつも、お互いの領域内へと多少の過干渉をし合うことを、意識の中でお互いが合意しあう必要が生じるでしょうし、言葉による合意でも、暗黙の中での合意でも、それなりに過干渉することを許す合意さえできていれば、ネガティブな意識や不調和を生じることは最小限でとどめることができるでしょう。

夫婦間であるとか我が子に対してとかといった深い愛で結ばれているとか、生活を共にしているとかといった場合には、たとえお互いに多少の過干渉を許す合意ができていたとしても、相手に対する愛が大きいあまりに、相手の領域に過干渉しすぎたり、相手の意や行動などを強引にでも変えさせようとしたりして、怒りや悲しみなどのネガティブな感情が生じることによって感情に不調和を起こしてしまったり、時には暴力という形で肉体的に不調和をきたしてしまったりすることもあるでしょう。そのような場合では、たとえおおもとの動機が純粋であり大きな愛の中のことであったとしても、結果的には次の行動を起こす際の動機には、エゴが多く入ってしまったり、その動機からの行動には、道理に叶っていなかったり不調和を生じたりしてしまう結果に至る場合がるでしょう。

このような場合には、最初の意識や行動と2次的な意識や行動とは、分けて捉える必要があります。一連の意識や行動全般を捉えようとすると自己判断が難しい場合が生じるでしょうが、1つ1つの意識や行動を分けて捉えれば、比較的容易に識別することができる場合がよくあります。そして、識別してネガティブに感じるようなことに気付いた際には、できるだけ早い段階で、状況を改善するとか、相手との調和を図るとか、ポジティブに変換して受容するとかといった解決をすることが必要であり大切なこととなるでしょう。


結論としてまとめますと、上記のようなことから、ご質問いただいた「自己を大切にすることと、利己主義(エゴ)の違いや見分け方」は、「動機」と「行動」を上記のような観点で自己の判断により識別するということになります。また、この自己の判断による識別をする際には、たとえ他からの情報が入ってきたとしても、他者の意見や世間の基準などといった他との比較のすべてをあくまでも参考程度にとどめ、最終的にはすべてを自己責任を強く持った中での自己判断によって識別したことを信頼するようにすることが大切です。

そして、その答えは、すべてがカルマとして自らの元へと返ってきますので、1つの行動に関しまして、結果的にポジティブであると認識できたような場合には、ネガティブなエネルギーを生じるエゴによるものではないと捉えてよいかと思いますし、結果にネガティブな要素が含まれていると感じた場合には、意識や行動の中にエゴもしくは何かしらのネガティブな要素が含まれていたと捉えることができるでしょう。

ご参考ください。

*上記の内容は、2009年9月10日に当ブログで掲載した内容を改訂して転載しました。


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